【54歳、元古着屋社長】何者でもなかった自分/PART.3|俳優を目指して東京へ。そして妻と出会い、再び古着屋になるまで

古着と人生にまつわる.etc

19歳でジーンズショップのアルバイトを始め、24歳で独立した。

なけなしの5万円を握りしめて東京へ仕入れに行き、見事に騙されたこともあった。笑

その後、「ウエス屋」という言葉をきっかけに古着の仕入れを覚え、フリーマーケットや卸売りを経て、自分の店を持つことができた。

ここまでが、前回までのお話である。

さて、今回はその続き。

順調だった古着屋を、私は27歳になる直前に一度閉めている。

商売がうまくいかなかったわけではない。

古着が嫌いになったわけでも、借金に追われていたわけでもない。

店は順調だったし、お客様にも恵まれていた。

毎日仕入れに行き、店を開け、商品を売る。そして夜は遊ぶ。

今思えば、若さだけで成立していたような生活である。笑

それなのに私は、店を閉めた。

そして、なぜか俳優を目指して東京へ向かったのである。

人生というものは、実に分からない。

しかも、この決断が後に妻との出会いにつながり、再び古着屋を始めるきっかけにもなるのだから、なおさらである。

田舎のショップを後にする私(若い頃)

順調だった古着屋をなぜ閉めたのか

24歳で独立してからの3年間は、まさに商売漬けの日々だった。

仕入れをして、売って、また仕入れる。

周囲には競争相手もいたし、決して楽なことばかりではなかったが、とにかく面白かった。

古着は好きだった。

商売も好きだった。

では、なぜ辞めたのか。

今でも簡単には説明できないのだが、当時の私には、どうしても無視できない気持ちが芽生えていた。

「若いうちに、一度まったく違うことをやってみたい」

このまま店を続ければ、それなりに安定した生活を送れたかもしれない。

しかし、27歳を目前にした私は、安定よりも好奇心を選んだ。

三つ子の魂百まで、である。

そこで、店は居抜きの形で、仕入れ先も引き継いでもらい、当時私のもとで働いていた女性に譲ることにした。

こうして、私の古着屋人生は一度幕を閉じた。

もっとも、この時は再び古着屋に戻ってくるなど、考えてもいなかったのである。

古着を売ってきた男「自分」を売りはじめる

では、店を閉めて何をするのか。

私が考えたのは、今思えば少々おかしなことだった。

「今度は、自分自身を売ってみよう」

古着屋では、商品を仕入れ、手入れをし、価値を見つけ、値段をつけて、お客様に買っていただく。

私はずっと、古着を売ってきた。

では、自分自身を商品にしたら、どうなるのだろう。

27歳前の小僧が、何を偉そうに。

今ならそう思う。笑

しかし、当時の本人はいたって真剣だった。

自分を売るには、どんな方法があるのか。

あれこれ考えた末にたどり着いた答えが、

「俳優になろう」

だったのである。

……なぜ、そうなる。

自分でも不思議だが、そうなったのだから仕方がない。笑

私は古着屋を閉め、一路、東京へ向かった。

俳優を目指して、東京へいざゆかん

目指したのは、ある劇団だった。

名前は伏せるが、当時、いわゆる日本三大劇団の一つと呼ばれていた劇団である。

研究生の募集に応募した。

後に劇団関係者から聞いた話では、書類応募は約1万人。

そこから約2,000人に絞られ、面接や演技の試験を経て、最終的に選ばれたのは約50人だったという。

ありがたいことに、私はその中に残ることができた。

今考えても、よく受かったものだと思う。

なぜなら、私は年齢を詐称していたからである。

募集の年齢制限は25歳まで。

私は27歳を目前にしていた。

……おい。笑

しかも、後になって分かったことだが、同期には同じように年齢をごまかして入ってきた者が、私のほかに3人もいた。

なんという期だ。

こうして私は、その劇団の25期生として養成所に入ることになった。

※四半世紀以上前の話である。当時の出来事として読んでいただければ幸いである。

劇団オーディション、少し緊張気味の私(若い頃)

50人から25人へ。厳しかった養成所

養成所で学ぶ期間は2年間。

1年目は、歌、発声、身体表現、日本舞踊、狂言、パントマイムなど、さまざまなカリキュラムが組まれていた。

講師陣には、読者諸兄も名前を聞いたことがあるような著名な先生方が並んでいた。

それまで古着を仕入れて売ることしかしてこなかった私にとって、何もかもが新鮮だった。

しかし、楽しいだけではない。

1年目が終わると、約50人いた研究生は約25人に絞られる。

半分である。

選ばれなかった者は、そこで劇団への道が閉ざされる。

合否の発表を最後に、会わなくなった同期もいた。

あの仲間たちは今、どうしているのだろう。

時折、そんなことを思う。

私は幸いにも1年目を通過し、2年目へ進むことができた。

2年目は、さらに実践的な内容になる。

1年間を通して、実際に3本の芝居を打つ。

そして、その舞台を経て、本劇団に残れる者が選ばれるのだ。

最終的に残るのは、ほんの数名。

年によっては、誰一人として本劇団に上がれないこともあった。

私たちは、あくまでも研究生だったのである。

2年間、必死に学び、3本の芝居を終えた。

あとは、劇団からの採用通知を待つだけとなった。

合格とも不合格とも記されてない

養成所での2年間には、ここでは書ききれないほどの出来事があった。

一生付き合える仲間に出会い、さまざまな人間模様を見た。

書ける話もある。

書けない話もある。

後者の方が多いかもしれない。笑

そのあたりは、読者諸兄のご想像にお任せしよう。

さて、そんな2年間の最後に、劇団から一通の封筒が届いた。

本劇団への合否通知である。

同期たちは、それぞれ連絡を取り合っていた。

合格した者。

不合格だった者。

人生の分かれ道である。

ところが、だ。

私の封筒には、合格とも不合格とも書かれていなかった。

書かれていたのは、たった一言。

「劇団に来い」

……ん?

何だ、これは。

同期に聞いて回ったが、誰一人として同じ通知を受け取っていなかった。

私はすぐに劇団へ向かった。

そして、当時、私をよく見てくださっていた演出家の先生と話をすることになった。

そこで言われた言葉を、今でも覚えている。

「お前は役者より、マネージメントに向いている」

……はい?

私は役者になりたくて、ここに来たのである。

自分を売りたくて、古着屋まで閉めたのである。

それが、マネージメント?

これでは、古着を売っていた頃と同じではないか!

当時は、そんな気持ちもあった。

しかし今振り返れば、先生は私の性格や適性をよく見てくださっていたのかもしれない。

私はその言葉を受け入れ、劇団の制作部門で働くことになった。

なんのことはない。

扱うものが「古着」から「役者の皆さん」に変わっただけのことである。

笑

自分を売るつもりが人を売る側になった

古着屋時代の私は、「古着」を売っていた。

俳優を目指した私は、「自分」を売ろうとした。

そして劇団では、「役者」と「芝居」を売る側になった。

なんとも不思議な話である。

しかし、この経験は後の私の経営に大きく役立つことになった。

誰を、どこへ、どう売り込むのか。

その人の魅力は何なのか。

何を伝えれば、相手に興味を持ってもらえるのか。

マネージメントの仕事は、単に役者や芝居を紹介することではなかった。

相手を理解し、その人の魅力を見つけ、必要としている人へ届ける。

これは、古着屋の仕事ともよく似ていた。

商品を理解し、その価値を見つけ、必要としているお客様に届ける。

扱うものは違っても、仕事の根っこは同じだったのである。

古着屋を閉めたことで、私は一度、人を扱う仕事を経験した。

その経験が、後の経営者人生に生きることになるとは、当時の私は知る由もなかった。

劇団を辞める。そしてバイクで旅に出た

制作部に入った私は、中国地方の5県を担当することになった。

広島、岡山、山口、島根、鳥取である。

全国を股にかける劇団だったため、地域ごとに担当者がいたのだ。

この仕事でも、本当に多くの方にお世話になった。

そして、ここでもいろいろあった。

実に、いろいろあった。

……これ以上は書かないでおこう。笑

そんな頃、父の体調が急激に悪くなっていった。

私は、故郷へ帰ることを考え始めた。

そして、劇団を辞める決意をした。

退職が近づくと、担当していた各地の皆さんから声をかけていただいた。

「辞める前に、一度遊びに来なよ」

ありがたい話である。

そこで私は、当時乗っていたバイク、YAMAHA V-MAXにまたがり、旅に出ることにした。

東京を出発し、担当していた中国地方の各県に立ち寄りながら、最終目的地である九州の叔母の家を目指す。

30歳の声が聞こえ始めた頃だった。

知らない道を走り、知り合いを訪ね、また走る。

今考えても、かなり自由な旅である。

体力も、今とは比べ物にならない。

そして、その旅の途中で、私の人生を大きく変える出会いが待っていた。

ヤマハV-MAXで一路、中国地方へ

女性10人に囲まれた飲み会。そして、妻が現れた

ある県を訪ねた時のこと。

お世話になった皆さんが、私のために飲み会を開いてくださった。

集まってくれたのは、女性10名ほど。

なんともありがたい送別会である。

その後、二次会へ。

そこで、仲の良かったテレビ局の女性SEさんから声をかけられた。

「私の後輩がこれから来るんだけど、一緒に飲んでも大丈夫?」

断る理由など、どこにもない。

しばらくすると、一人の女性が現れた。

髪を一つにまとめ上げたその女性は、席に着くなり、こう言った。

「お腹すいた!」

そして、ラーメンをすすり始めた。

……おお。

実に気持ちのよい登場である。笑

ひとしきり飲み、食べ、ようやく落ち着いたところで、ゆっくりとご挨拶。

それが、その後、私の妻になる女性との初めての出会いだった。

人生とは、本当に分からない。

古着屋を閉めなければ、劇団には入っていない。

劇団に入らなければ、中国地方を担当することもなかった。

あの旅に出なければ、あの飲み会にも参加していない。

そして、彼女があの夜、ラーメンを食べに来なければ。

……いや、最後は少し違うか。笑

とにかく、どこか一つでも違っていたら、妻とは出会っていなかったのだと思う。

人生は、奇跡の連続である。

居酒屋で初めて出会う若い二人。髪をまとめた妻がラーメンを食べ、向かい側で私が少し驚きながら笑っている。

2001年、故郷へ。そして一本の電話

2001年。

父の体調のこともあり、私は生まれ育った故郷へ帰ることを決めた。

妻との結婚も控えていた。

妻も仕事を辞め、私のもとへ来る準備をしていた。

そんな時、一本の電話がかかってきた。

相手は、昔お世話になっていた仕入れ先だった。

「また古着をやらないか?」

確か、そんな話だったと思う。

一度離れたはずの古着が、また私のところへ戻ってきたのである。

以前、私が譲った店は、その後、閉店していた。

そうした事情もあって、私に連絡をくださったのかもしれない。

それにしても、タイミングがよかった。

いや、よすぎた。

私は、再び古着を扱うことを決めた。

新しい店舗を探し始めると、これまた不思議なことが続いた。

よい物件が見つかる。

スタッフとして迎えたいと思っていた昔なじみの女性が、ちょうど退職したばかりだった。

妻との結婚も控え、何かと忙しい時期ではあったが、物事が次々と動き始めた。

こうして、出戻り古着屋の第二幕が始まることになったのである。

サラリーマンにならなかった

私は結局、サラリーマンにはならなかった。

いや、なれなかった。

そう言った方が正しいのかもしれない。

でも、きっと本当は「ならなかった」のだと思う。笑

もちろん、会社員という生き方を否定するつもりなど、まったくない。

それぞれに、それぞれの人生がある。

私の場合は、自分で決めて、自分で責任を取ることが性に合っていただけなのだろう。

人のせいにするのが、極端に嫌だったのかもしれない。

27歳の時に考えた「自分を売ってみたい」という気持ち。

それは、形を変えながら、今に至るまで続いているように思う。

私の最終学歴は、劇団である

結果として、私は俳優にはならなかった。

いや、なれなかった。

しかし、俳優を目指し、劇団で過ごした時間は、私に多くのことを教えてくれた。

自分を客観的に見ること。

人を見ること。

人の魅力を引き出すこと。

人と人をつなぐこと。

そして、自分が何者なのかを相手に伝えること。

どれも、後の経営者人生に生きた。

私にとって、あの劇団は間違いなく「最終学歴」である。

古着屋を閉めた時、周囲には不思議に思った人もいただろう。

自分でも、なぜあそこまで思い切れたのか分からない。

それでも、今は思う。

あの時、店を閉めてよかった。

俳優を目指してよかった。

劇団に入ってよかった。

そして、役者にはなれなかったけれど、制作部で働いてよかった。

そのすべてがあったからこそ、妻と出会い、再び古着屋へ戻ってくることができたのだから。

無駄な経験なんて、ないのである。

古着屋人生、第二幕へ

今回で、「なぜ私が古着屋になったのか」という物語は、いったん一区切りとなる。

19歳でジーンズショップに入り、古着と出会った。

5万円を握りしめて東京へ行き、騙された。

ウエス屋の倉庫で仕入れを覚え、24歳で独立した。

27歳を目前にして店を閉め、俳優を目指した。

劇団で役者や芝居を売る仕事を経験し、旅の途中で妻と出会った。

そして故郷へ帰り、再び古着屋を始めた。

ここから先は、妻とともに歩んだ、24年間にわたる古着屋人生の第二幕である。

仕入れのこと。

お客様のこと。

スタッフのこと。

商売のこと。

そして、人を大切にするということ。

古着屋という仕事を30年以上続けてきて、最後に残ったのは「どれだけ儲けたか」という数字だけではなかった。

どんな人と出会ったか。

どんなお客様に恵まれたか。

どれだけ人に助けてもらったか。

そして、自分も人を大切にできただろうか。

54歳になって会社経営を終えた今、そんなことを考える。

私の財産は、そこで出会った人たちと、積み重ねてきた時間なのだと思う。

24年分の話は、まだまだある。

次回からは、古着屋を再開してからのお話をしていこう。

続く。

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