夏になると、なぜか本を読みたくなる。
外は暑い。エアコンの効いた部屋でコーヒーでも飲みながら、ゆっくり本を読む。
54歳になった私にとって、なかなか贅沢な時間だ。
そんな夏の読書で久しぶりに手に取ったのが、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』。
実は、この本を読むのは今回が初めてではない。
もうすでに何度も読んでいる。
で、やはり素晴らしい。
元い「素晴らしい」という言葉だけでは、この本の全容をお伝えするのに、全くこと足りない。
読むたびに違うところで立ち止まり、違うことを考えさせられる。
やはりこれは、紛れもない名作だ。
■『アルジャーノンに花束を』は、やはり「本」で
『アルジャーノンに花束を』は、ドラマや映画にもなった。
日本でも2002年にユースケ・サンタマリア主演のドラマが制作され、その後、2015年には山下智久が主演でドラマ化もされている。
映像作品も素晴らしい、それは間違いない。
でも、私はこの作品をぜひ一度、読者諸兄に「本」で読んでほしいと思っている。
なぜなら、この小説の凄さは、物語そのものだけではなく、「文章そのものが主人公の変化を表現している」ところにあるからだ。
主人公はチャーリイ・ゴードン。
大学の研究チームが開発した知能向上の手術を受けることで、少しずつ知能を高めていく。
その過程を、チャーリイ自身が書く「経過報告」という形で読者は追っていく。
最初は誤字や脱字が多い。
文章もたどたどしいし、文字自体が反転もしている。
ひらがなが中心で、漢字も十分には使えない。
我々読者も、なかなかに読みにくい。
ところが、チャーリイの知能が高くなっていくにつれて、文章そのものが変わっていく。
語彙が増え、漢字が増え、文章が整理されていく。
もちろん誤字などない。
そして、やがて「天才」と呼ばれるほどの知能に到達する。
読んでいるこちらは、チャーリイが頭の中で何を考えているのかを、文章の変化そのもので感じることになる。
これは、
チャーリイが賢くなっていく姿を「読む」のではなく、文章そのものを通して「体験する」本
これは映像では無理だ。
小説だからこそ、文字だからこそできる表現だと思う。
■文字の持つ力
私はこの本を読みながら、改めて文字の凄さを思い知った。
ひらがな。
カタカナ。
漢字。
句読点。
誤字や脱字。
文章の長さ。
言葉の選び方。
たったそれだけの表現なのに、チャーリイが変化していくことだけでなく、人間の知能の変化さえも、伝えてしまっている。
文字の使い方においてこの手法は、かなり稀有な部類に入る小説ではないだろうか。
そもそも小説というのは、普通なら「何が起こったのか」を文章で説明する。
ところが『アルジャーノンに花束を』は、
文字そのものが物語になり、本の存在自体が主人公となっている
だからこそ、何度読んでも新しい発見がある。
■人の幸せとは?
そして、この本を読むたびに考える。
「幸せとは?」
いい高校に入り、いい大学に進学し、有名な会社に就職して、たくさんお金を稼ぐことが幸せなのか。
もちろん、それらが人生において意味のないものだとは思わない。
それを目標に頑張っている人たちもいる。
親として、子どもに少しでも良い教育を受けさせたいと思うのも当然だ。
私自身も子どもたちを育ててきた。
だからこそ、切に思う。
「良い学校に入ること」と「幸せになること」は、本当に同じなのだろうか
『この本』が、私に問うてくる。
頭が良くなり、知識が増える。
周りの人よりも物事が理解できるようになる。
それは、一見すると素晴らしいことに思える。
でも、人間はそれだけで幸せになれるのだろうか。
むしろ、知らなかったことを知ってしまったことで、見なくてもよかったものまで見えてしまう。
人の心の裏側。
自分に向けられていた視線。
過去の出来事。
そして、自分自身の存在。
知能が高くなることで、チャーリイが見つけていく世界は、必ずしも「幸せな世界」ではない。と思う。
私の家の前で、いつも出くわす男性がいる。
彼は私の店のお客様でもあったのだが、店の閉店を心配していつも私に話しかけてくれる。
そして、この男性が一見すると、「チャーリィ」なのだ。
私は彼に会うたび思う。
この方の人生はどんなだろう?と。
仕事柄、100年続いてる地元で有名な会社の社長なども私は知っているが、とにかく人としては尊敬できない。しかしこの「チャーリィ」とよく似た男性は、心から私の店の閉店を惜しみ、一生懸命話してくれる。
私は毎回晴れやかな気持ちになり、その男性に手を振る。そして、きっとこの方は「幸せ」なんだろうと、その背中を見送る。
■そして今の「幸せ」を憂う
さて、今の日本では、子どもたちに対して、
「少しでもいい高校に行きなさい」
「少しでもいい大学に入りなさい」
「少しでもいい会社で仕事をしなさい」
と、子どもたちの”背丈”を高く越えさせようと誘っている。
もちろん、親が子どもの将来を心配する気持ちは分かる。
なぜなら、私も”親”なのだから。
しかし、”わかる”ことと、”理解する”ことは全然違う。
学歴が高く、収入があり、社会的な評価が高ければ幸せなのか。
そんなものだけでは説明できない何かが、人生にはたくさんある。
この本を読むと、そうした「世の中が勝手に決めた幸せの基準」が、私の中で少しずつ崩れていく。
そしていつも最後には、
「本当の幸せとは何なのか?」
というシンプルだが、難しい問いだけが私の心に残る。
■子どもたちも読んだアルジャーノン
この本は、以前、私の子どもたちにも紹介したことがある。
親として、何かを子どもに伝えたかった。
優しい目で人と接してほしい。
人の価値を、受け入れる寛容さを持ってほしい。
そして、自分自身の幸せを、自分なりに考えてほしい。
そんなことを、この本から感じ取ってほしかったのかもしれない。
当然だが、子どもが読んで感じる事と、50代の私が感じる事では、その方向や思いはまったく違うものだ。
若い頃には気づかなかったことが、今になると感じ取れることもある。
それも読書ならではの面白さだと思う。
この夏、まだまだ読み返すべき本がたくさんありそうだ。
■NEXT 『24人のビリー・ミリガン』
『アルジャーノンに花束を』を読んだあと、私はダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』も読んだ。
こちらは小説ではなく、実際に存在したビリー・ミリガンと言う人物を題材にしたノンフィクション。
一人の人間の中に24もの人格が存在したとされるビリー・ミリガンについて、キイスが本人へのインタビューや関係者の証言、裁判記録などをもとに描いた作品だ。
『アルジャーノンに花束を』とはまったく違う作品なのだが、読み進めていくと、「この作者は人間の心というものを、いったいどこまで考えていたのだろう」と思ってしまう。
ダニエル・キイスという作家は、人間の「心」と「知能」をテーマに、ずっと人間そのものを見つめていたのではないだろうか。
ちなみに『24人のビリー・ミリガン』は上下巻。
読むなら、かなり時間を取ってじっくり読んだほうがいい。
■この夏、もう一度「本」を読んでみませんか
『アルジャーノンに花束を』は、決して新しい本ではない。
しかし、古いなんて全く感じない。
むしろ、今の時代だからこそ読んでほしい本である。
成績、偏差値、学歴、収入、仕事、社会的な成功。
私たちはいつの間にか、そんな数字や肩書きで人間を測ることに慣れてしまっている。
しかし人間の幸せは、そんな単純なものではない。
この小説は、忘れがちになる「大切なもの」を私たちに教えてくれる。
ドラマや映画を観たことがある人も、ぜひ一度、本を手に取り、ページを開いてみてほしい。
エアコンの効いた部屋に閉じこもり、冷たい飲み物でも用意して、ゆっくりページをめくってみてほしい。
チャーリイの文章を追い、彼の文字が、心が、少しずつ変わっていくのを感じてほしい。
読み終えたとき、きっと最初とは少し違う「幸せ」という言葉の意味が、自分の中で変わっているのに気づくはずだ。
私は、この本が好きだ。
ダニエル・キイスの最高傑作は何かと聞かれたら、やはり私はこう答える。
『アルジャーノンに花束を』
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関連して読みたいダニエル・キイス作品
『アルジャーノンに花束を〔新装版〕』
2026年4月に新装版が刊行されている。小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫NV。480ページで、宇多田ヒカルとの1999年の対談も特別収録されている。
『24人のビリー・ミリガン〔新版〕』
『アルジャーノンに花束を』とは違った角度から、人間の心について考えさせられるノンフィクション。
『五番目のサリー』
ダニエル・キイスの代表作のひとつ。『24人のビリー・ミリガン』や『アルジャーノンに花束を』と合わせて読むと、キイスが「人間の心」をどう描いてきた作家なのかが、より分かりやすくなる。
※なお、2015年のTBS版『アルジャーノンに花束を』は山下智久さん主演で放送され、公式サイトにも原作紹介が掲載されています。
