古着屋になった男の人生物語・第三部
順調だった古着屋を、なぜ私は27歳で閉めたのか。
商売がうまくいっていなかったからではない。
古着が嫌になったわけでもない。
借金に追われていたわけでも、店を続けられない事情があったわけでもない。
むしろ、店は順調だった。私の月のお小遣いは前述した通り、変わっていない。
毎日、仕入れに行き、店を開け、商品を売る。夜は遊ぶ。若かったからできた、今思えばかなり無茶苦茶な生活だった。
それなのに私は、27歳の誕生日を目前にして、順調だった古着屋を一度閉める決断をした。
お店は居抜きで、仕入れ先も付けて私の元にいた女性に譲った。
なぜか。
今でも、簡単には説明できないが、あの時の私の中には、どうしても無視できない気持ちが芽生えていた。
回想
前回、前々回と、私が古着屋になった頃の話を書いてきた。
19歳でジーンズショップのアルバイトを始め、店長になった。
古着という仕事に出会い、独立を決意。
東京へ行き、なけなしの5万円で騙されもした。
そこで偶然聞いた「ウエス屋」という言葉をきっかけに、倉庫から古着を仕入れ、フリーマーケットや店舗への卸売りを始める。
商売を覚え、24歳で自分の店を持った。周りは敵ばかりだった。
24歳から27歳までの3年間は、古着屋として戦いの日々だった。でも楽しかった。
だからこそ、店を閉める決断は自分でも不思議だった。
一旦、古着屋、閉めようか
古着が嫌になったわけでも、商売を辞めたかったわけでもない。
変わらず古着は好きだったし、店も順調、お客様にも恵まれていた。
それでも心のどこかに、「若いうちに一度、違うことをやってみたい」という気持ちが芽生えた。
このまま古着屋を続けていけば、ある程度は安定するかもしれない。
しかし、27歳になる私は、安定よりも好奇心を選んだ。三つ子の魂百まで。
様々な出会いがあった。そう、あの仕入れ先や、古着屋DBさんと出会ったように。
そして、いろいろ感じた末にたどり着いたのが、「自分を売ってみよう」という考えだった。
古着屋では、商品を仕入れ、手入れをし、値段をつけて、お客様に買っていただく。
私はそれまで、ずっと商品を、古着を売ってきた。
果たして、『自分自身』を商品にしたらどうなるのか?
27歳前の小僧が何を偉そうに言っているんだ、と今になれば気恥ずかしい限り。
しかし、その時の本人はいたって真剣だった。
自分を売るなら、どんな方法があるのか…、たどり着いた先は『俳優』という道だった。
俳優を目指し、東京へいざゆかん
ここから少し、古着の話から離れる。
ただ、ここからの4年間は、私のその後の人生を大きく変える時間だった。
何より、「妻と出会うきっかけ」となる時期だったからだ。
もしあの時、古着屋を閉めて、別の道を選んでいれば、私は妻と出会っていない。
古着屋を続けていても同じ、出会えてはいない。
そう考えると、27歳前で店を閉めた決断は、私の人生にとって非常に大きな意味を持つこととなる。
さて、古着屋を閉めた私は、一路、東京へ向かった。
目指したのは、ある劇団だった。
名前は伏せるが当時、いわゆる日本三大劇団の一つだ。
研究生の募集には、書類応募総数約1万人が応募していた。(のちに劇団関係者から聞くこととなる事実である)
書類選考で約2,000人に絞られ、そこから一次試験(面接)、二次試験(軽い演技)へと進む。
最終的に選ばれたのは約50人だった。
※今から四半世紀以上も前の話である、”時代”と思って読んでほしい。
運よく私は、その中に残ることができた。
今考えても、よく受かったものだと思う。なぜか?私は年齢を詐称していたからだ。笑
25歳までしか入れない劇団研究生募集に、27歳を目前に控え、応募。
しかし、それでも私は、その劇団の25期生として養成所に入ることができた。
さらに、そうして年齢を偽り入ってきた同期が、私の他に3人もいた。笑
厳しい現場、自分を高める
養成所は2年間だった。
1年目は、歌や発声、身体表現など、さまざまなカリキュラムを受ける。
日本舞踊に狂言、パントマイム、その他多数。
講師陣は超有名な方やご高名な先生方。読者諸兄も目や耳にしたことのある方たちが勢揃いだった。
前半である1年が終わると、50人から約25人へ。
なんと、半分に絞られる。ここではじかれた者は、劇団からは何もしてもらえない。どこへも紹介してもらえず、そのほとんどの生徒が役者を諦める。
簡単な世界ではなかった。
合否の結果を最後に、会わなくなった同期たちは今、何をしているのだろう…。
この養成所で学ぶ2年間は、20代後半の私にとって、とても刺激的な時間だった。
私の「最終学歴」と言っても過言ではないだろう。
そして2年目は、さらに実戦的になる。
この一年間を通して、実際に3本の芝居を打つ。
その中で、本劇団に残る人が選ばれていく。そう、私たちはこの時点ではまだ研究生。
最終的に残るのは数名。
年によっては、誰一人として上がれないこともあった。この劇団の幻の18期がそうである。
ここでも私は1年目を通過し、2年目へ進んだ。
そして2年目、一年を通し3本の芝居を終え、あとは採用通知を待つだけになった。
マネージメント
この2年間には、ここでは書ききれないほどの出来事があった。
ありすぎたので、はしょる。読者諸兄のご想像に任せたい。
一生付き合える仲間に出会えた、様々な人間模様を見た、俳優を目指したことは、決して無駄ではなかった。
この経験は、私の人生にとって今でも大きな財産となっている。
そんな2年間の最後に、劇団から一通の封筒が届いた。
本劇団への『合否通知』だ。
本来ここには、合否の知らせがあり、残る者、出ていく者とに別れることとなる。
同期たちは各々連絡を取り合っていた。
ところが、だ。私の封筒には、合格とも不合格とも書かれていなかった。
「……ん?」何だこれは。『劇団に来い』の一言。
同期に聞いて回ったが、誰一人、そのような通知は来ていなかった。
私はすぐさま劇団へ向かい、当時私を一番よく見てくれていた演出家の先生と話をすることになった。
先生から言われた言葉は、今でも覚えている。
「お前は役者より、マネージメントに向いている」
「?」
私は役者になりたくて劇団に来た。
自分を売りたくて、2年間芝居を続け、厳しい修行にも耐えてきた。
『マネージメント』だと?
これでは古着を売っていたあの頃の私と同じ立場ではないか!とも思った。
しかし、今振り返ると、先生の判断はとても的確だったのかもしれない。
劇団には、役者、演出家、スタッフなど、さまざまな人がいる。
長年にわたって人を見てきたプロたちが、私の適性を見て出した答えだった。
私はその言葉を受け入れ、劇団のマネージメント部門で働くことになった。
なんのことはない、扱うものが「古着」から「役者の皆さん」に変わっただけの事である。笑
自分はある意味買われた。そして”人”を売る側へ
古着屋時代の私は、「商品(古着)」を売っていた。
俳優を目指した私は、「自分」を売ろうとした。
そして劇団では、「役者」と「芝居」という人間たちを売る側に回った。
今振り返ると、すべてつながっている。
誰を、どこへ、どう売り込むのか。その人の魅力は何なのか。
何を伝えれば、相手に興味を持ってもらえるのか。
マネージメントの仕事は、単に人や商品(芝居)を紹介するだけではない。
その人自身を理解し、魅力を見つけ、必要としている相手へ届ける仕事だった。
これが、後の経営に大きく役立つ経験になった事は言うまでもない。
古着屋を閉め、違う道を歩んだことで、私は一度、人を扱う仕事を経験した。
その経験が、後の私の考え方を大きく変えていくことになるとは、この頃の私は知る由もなかった。
そして、妻と出会う
制作部(マネージメントの部署)に入った私は、広島、岡山、山口、島根、鳥取の中国地方5県を担当することになった。※全国を股にかける劇団なので、ブロックごとに担当がいる。
この時期も色々あったのだが、書けないことも沢山たくさん、たーくさんあるので、またまた読者諸兄のご想像にお任せしんぜよう。
さて、劇団を1年ほど勤め、この頃になると私の父が急激に身体を悪くしていった。
私は劇団を辞める決意をする。
劇団を辞める時期が近づくと、担当各地の皆さんから、「辞める前に遊びに来なよ」と声をかけていただいた。
そこで私は、当時乗っていたバイク(YAMAHA V-MAX)にまたがり、東京から九州にいる叔母のところを最終地に設定し、5県を回る旅に出る。30歳の声が聞こえはじめていた…。
目的の最後は、九州に住んでいた叔母を訪ねることだったが、東京から九州方面へ向かいながら、知らない道をさすらい、担当していた地域に立ち寄る。
今考えても、かなり自由な旅だった。体力も今とでは比べ物にならない。
そして、その旅の途中で、私の人生を大きく変える出会いがあった。
ある県で女性10名に囲まれ、飲み会を開いていただき、その後二次会へ。
仲の良かったテレビ局の女性SEさんに声をかけていただいた。
「私の後輩がこれから来るから、一緒に飲のでも大丈夫?」
断る理由など無い。
そして、その場に現れた女性。
髪を一つにまとめ上げ、来るや否や、「お腹すいた!」とラーメンを啜った。
ひとしきり飲んで、食べてやっとゆっくりご挨拶。
それこそがその後、私の妻になる女性との、初めての出会いだった。
人生は、本当に分からない。
古着屋を閉め、俳優を目指し、劇団で働き、あの旅に出た。
そのどこか一つでもピースが欠けていたら、妻とは出会っていない。
人生とは、奇跡の連続だ。
古着屋、再始動
父の具合がよろしくなくなった、2001年。
そう、あのアメリカへの同時多発テロ事件が世間を騒がせていた頃。
妻との結婚も控えていたため、生まれ育った故郷へ帰ることを決めた。
妻も会社を辞め、私の元へ来る準備をしていた。
そんな時、一本の電話がかかってきた。
相手は、昔お世話になっていた仕入れ先だった。
「また古着をやらないか?」そんな話だったと思う。
一度離れたはずの古着が、また私のところへ戻ってきた。
以前、私がやっていた店は、私の元にいた若い子たちに買い取ってもらっていたが、彼女たちは閉店を余儀なくされていた。
そんな状況から私に連絡が来たのだと思うが、タイミングはバッチリだった。
そこで私は、また古着を扱うことを決め、新しい店舗を探し始めるのであった。
タイミングというのは恐ろしいもので、とても良い物件が見つかったり、スタッフにしたいと思っていた昔馴染みの女性が、退職したばかりで困っていたりなど、妻との結婚を控え、忙しい中ではあったが、新しい店を始めることと相なった。
出戻り、古着屋人生の第二幕が、ここから始まる。
責任は自分で
私は結局、サラリーマンにはならなかった。
いや、なれなかった。
そう言った方が正しいのかもしれない。でもきっと、真実はならなかったんだと思う。笑
もちろん、会社員という生き方を否定するつもりはない。
それぞれにそれぞれの人生があるし、私にはできないから、単純にすごいと思う。
私の場合は、自分で責任を取りたかっただけなのかもしれない。人のせいにするのが、極端に嫌だったのかもしれない。
きっと、そんな生き方が性に合っていたのだと思う。
「自分を売ってみたい」と考えた27歳の気持ちは、形を変えながら、今に至るまでずっと続いている。
最終学歴
結果として、私は俳優にもならなかった。いや、どうあれ、なれなかった。
しかし、私は劇団で過ごした4年間の経験を通し、多くのことを学んだ。
自分を客観的に見ること。
人を見ること。
人の魅力を引き出すこと。
人と人をつなぐこと。
そして、自分が何者なのかを相手に伝えること。
これは、後の経営者人生にも間違いなく生きている。
無駄な経験なんてない。
私の『最終学歴』は、間違いなく劇団◯◯座だ。
順調だった古着屋を27歳手前で閉めたことも、決して間違いではない。
その決断があったからこそ、私は妻と出会い、別の仕事を経験し、再び古着屋へ戻ることができた。
古着屋人生第二幕
今回で、「なぜ私が古着屋になったのか」という物語は、いったん一区切りになる。
19歳でジーンズショップに入り、古着と出会った。
5万円を握りしめて東京へ行き、騙された。
ウエス屋の倉庫で古着を仕入れ、「商売のなんたるか」を覚えた。
24歳で独立し、27歳前に一度店を閉めた。
そして、自分を売るために俳優を目指した。
劇団で人や芝居を売る仕事を経験し、旅の途中で妻と出会った。
故郷へ帰り、再び古着屋を始めた。
ここから先は、24年間にわたる古着屋人生の第二幕になる。
次回からは、古着屋を再開してからの話を書いていこうと思う。
仕入れのこと。
お客様のこと。
商売のこと。
スタッフのこと。
そして、人を大切にするということ。
古着屋という仕事を30年以上続けてきて、最後に残ったのは、「どれだけ儲けたか」ではない。
どんな人と出会ったか。
どんなお客様に恵まれたか。
どれだけ人に助けてもらったか。
そして、自分も人を大切にできたか。
24年分、まだまだある。
私の財産は、全ての時間と人間である。
続く。

