「成り上がり」【第1章】
読者諸兄、こんにちは。
今回は、私がなぜ古着屋になったのか、そして35年以上もの長い間、古着業界で生きてこられた理由を、?章に渡りお話しさせていただくこととする。「?章」と書いたが長くなるかもしれないのでご容赦願いたい。では、心して刮目せよ。
これから、
- 古着屋になるまでの軌跡
- 今だから話せる古着業界の裏話
- 古着の本当の価値とは
- 仕入れ方法、今昔物語
- 人を大切に出来なければ、商売なんてやめろ
- 途中、全く違う職業もした話
などを包み隠さずお伝えしていきます。
自身の言葉で話す故、言葉遣いに慣れない方もいらっしゃると思われるが、私の思いはこれでないと伝わらないため、ご了承いただきたい。
「古着屋をやってみたい」
「古着で独立したい」
「副業で古着販売を始めたい」
そんな方にも参考になれば嬉しい限りではあるが、果たしていかなるものか…。
では、行ってみよう。
皆と同じようには生きられなかった
団体行動が苦手だった。
言われたことを毎日同じように繰り返すより、自分で考えて動く方が好きだった。
時には親や先生、友人に多大な迷惑をかけても、だ。
そんな私が17歳の頃に出会った仕事が、ジーンズショップのアルバイト。何をやっても長続きしない私は、この時点で高校すら辞めていた。※これに関しては54歳になる現在まで、『我が道のりにいっぺんの悔いなし』むしろ、中退を”武器”として使うことすら、ある。
話を元に戻そう。
洋服が好き。
人と違う事が好き。
人が行かない道を進むことが正義。(当時の私の愛車はkawasaki Z-750RS〜俗にいうZ-2〜)あいつとララバイをこよなく愛す17歳。暴走族がダサい格好で走っている時代にジーンズと革ジャン、もしくはスウィングトップを着用。まあ、ある意味では私も寒いが…。
何種類のバイトをやっただろうか。働けど働けど、これらの仕事、全て身に付かず…。1日で辞めたところもあった。
ある日、アルバイト雑誌で仕事を拾った。自宅からバイクで40分かかるところにあるジーンズショップ。
毎日が楽しくて、気が付けば19歳で店長にもなっていた。(一般教養の苦手な私は、当時の部長の手引きで裏工作をしてもらい、テストをパス。その後、ジーンズショップの社長の鶴の一声で社員に昇格)
世渡りは上手かったようだ。
しかし3年ほど働いた頃、気付いた。
「これが本当にやりたいことか?」「結局、人に使われているだけじゃないか…」と。
時代はDCブランド全盛期 男も女もチャラチャラ
今から35年以上前。
1990年代、前半。
世の中はDCブランドブーム。軽く残ったバブル。
街にはきれいな服があふれ、アメリカ古着なんてそんな土臭いもの、誰も見向きもしねぇよ、と言うような風潮。
一緒に働いていた年上アルバイトの女子大学生は、いつもキラキラしていた。
少し羨ましくもあった。
501も、ネルもワークJKTも、私の見えるところからは、どんどん姿を消して行った。
そんな時代だった。
しかし、それでも細々と営業している古着屋はあった。
私が勤めていたジーンズショップから歩いて15分ほどのところ。
私が初めて入ったその店には、たった3坪ほどの店の片隅にスラリと立ち、キレイめなデニムジャケットを古着の派手なシャツでコーディネイトした30代前半の男性がいた。
私の人生を変えることになるその男性、古着屋DBさんとの邂逅。
なるほど、古着か
その店主は、ニコニコと私に「どこからきたの?」
私の財布よりも、私に興味を持ち、何より会話を楽しもうとしているように見えた。
「少し、オネェだな」私の偽らざる第一印象。
客は私しかおらず、1時間ほど話をし、店を後にした。
その日、私は高揚する気持ちを抑えられず帰宅。
買って帰ったマーチンのモンクストラップは、サイズこそ少し大きかったが、その程度の良さは今でも鮮明に覚えている。
古着屋、これは面白い。
握りしめた仕入金額5万円、広島から東京へ出てきた「あの人」と同じ金額
それから何回か件の古着屋DBさんに通ううちに、私は心情を吐露。
「俺も古着を扱ってみたい、仕入れ先を教えてくれませんか?」
かなり、不躾な問いである。今思い出すと「顔から火が出る」とはこの事。
快く一件の卸先を紹介してくれたDBさん、私は感謝でいっぱいだった。
何はともあれ、仕入代5万円をその手に握り締め、いざ東京へ。
あの人の本「成り上がり」を思い出す。
初めて入った卸先の店内は狭く、店員も怪訝そうに私を見る。胡散臭い。
結局、つかまされたのは売り物にならないネルシャツばかり100枚。(6割が破れや匂い、破損のあるものだった)後日、配送されてきて開封、いやはや酷いものだった。
しかし、結局この事が、今後に至る古着の仕入先を見つけ出す、トリガーとなるのだった。
チャンスはいつでも自分のそばに
5万円を支払い店を出ようとすると、店主が私を呼び止める。
「そう言えば、どこでうちのことを知ったの?」
「古着屋のDBさんです」
と私が紹介してくれた人の名前を伝えると、
「ああ、あそこのオヤジさんね」
「変わってる人だから」
そして何気なく続けた一言。
「あの人はさぁ、○○○屋から仕入れてるんだよ。」
……。
○○○屋?
初めて聞く職業だった。
その瞬間から頭の中はその言葉だけ。
ガラクタ古着を私に掴ませた店主が、その後何を話したのかなんて、全く覚えてないほどに。
おっとり刀で電話ボックスへ
スマホなんてない。
携帯電話(ガラケー)すら普及していない。あるのはポケベルのみ。
私は店を飛び出し、電話ボックスへ。
電話帳をめくり、○○○屋を探す。
電話番号その他を書き留め、そのまま地元へ。
帰りの車の中でも考えていたのは一つだけ。
「早く、早く次へ」
当たっても砕けない
翌日。
片っ端から地元の○○○屋へ電話。
「うちはやってないよ」
「古着?あるけどゴミばっかりだぞ」
冷たい言葉が並ぶ。
諦めるものか。トライ&エラー、なんぼのもんじゃい。
何件掛けただろうか、ほぼほぼ最後のほうに掛けた○○○屋から
「一度来てみる?」
嬉しさで返事も出きないほどだった。
いざ倉庫へ〜埃と湿度、過酷な労働環境〜
いよいよ当日。
○○○屋の社長さんと、仕入れに関する様々な話をしたあと、
「じゃあ倉庫を見ていく?今日は他の人が来てるので買い付けはできないけどね」と。
案内された場所は、小学校の体育館ほどある巨大な倉庫。想像を絶するほど大量の古着が、所狭しと折り重なっていた。
一言で言うならば、ゴミの山。
しかし、私には宝の山だった。
今でこそ、トランスフォーメーションという言葉はデジタル、グリーン、AIなどの世界で広く使われているのだが、私は30年以上前から、このトランスフォーメーションに触れていたのかもしれない。単にリサイクル、リユースとはかけ離れた仕事を、私はここから30年以上することとなる。
定年退職をして、孫のために、生活のために働いている、高齢の方達ばかりで構成された従業員さんたち。
この蒸し暑く、埃まみれの厳しい環境の中、時折バカでかい笑い声が聞こえる。
何とも心地よい。
しかし、その人たちとは離れた場所で動く人影。ふと目をやると、その山の中で古着を掘り出してる人がいる。おそるおそる目を向けて見てみると、なんとそこには、東京の仕入れ先を私に紹介してくれた、あの古着屋店主DBさんの姿が。
目が合うなり、
「あ、見つかっちゃったね(笑)。ここ、突き止めちゃったんだ」
と一言。
最初からここを教えなかった理由は、今の私ならよく分かる。
この後、商売をしていく中で、何度お客さんや商売をやりたいと言う若者から『仕入先』のことを聞かれたことやら…。商売には「企業秘密」と言うものがある。そしてそれを守り通すことがプロとしてのルール。
この考え方は、その後30年以上会社を経営する中でも、私自身がずっと守り続けた大切な教え。
これなら自分らしく生きられる
見つけてしまった。
仕入先も去ることながら、自分の生き方を。
○○○屋で仕入れた古着を吟味し、当時流行ったフリーマーケットなどで販売。
今のようなメルカリやECショップは無い。
いや、そもそもデジタルは脆弱な媒体としては存在していたが、往来はアナログが闊歩する時代。
自分で会場へ行き、一枚一枚販売。もともと接客は好きだし、いろんなお客様とのお話も好き。
さらには知り合いを広げ、紹介で様々な古着屋への卸販売もスタート。
今で言えば、副業?(心が古着に奪われてからは、ジーンズ店が副業となっていたのかも…)からのスタート。楽しくてしょうがなかった。時間が足りなかった。
21歳になったばかりの春。
3年ほど世話になったジーンズショップを辞め、独立。
『自分の店を持つ』を目標に、古着バイヤーとして挑む。
あの日、『5万円ドブ捨て』の笑い話がなければ、確かに今は無い。
人生とは、なんと不思議なものよ。
次回予告
次回はいよいよ、
「○○○屋とは何なのか?」
一般の人は誰も知らない、知られちゃいけない古着流通の仕組み。
35年ほど前の古着の仕入価格。
/kgいくらだった時代。
倉庫から直接買い付けた古着とはどんなものだったのか。何が問題で何が利益につながったのか。
そして、なぜこの仕入れ方法でなければならなかったのか。
今までほとんど語らなかった古着業界の裏側を、包み隠さずお話しします。
どうぞお楽しみに。

